天正15年(1587)、豊臣(太閤)秀吉が鹿児島の島津氏を平定するため九州に来ました。同行していた茶人、津田宗及が堀ったこの井戸で、博多からの帰路に秀吉がこの水を口にしたと言われています。後の人が太閤秀吉にちなんで、太閤水(飯銅水)と呼ぶようになりました。